ミナミヒレナガコクテンハゼ(新称) – シリーズ「和名考」その6

今回はねよし(富戸の波)さんのコメントになります。
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neyoshi_base_bigger.jpgねよし – 富戸の波 (2010/04/15)
しげる君へ。
海の現場で実際に多くのダイバーの方々と接しているガイドさんらしい具体的なお話の数々、大変興味深く拝読しました。
「へぇ~、セグロヘビギンポの『背黒』は死んでから現れる斑紋に基づいているのかぁ」と勉強にもなりました。
「でも」
と、ここで敢えて申します。繰り返しになりますが、ネジリンボウを例にもう一度僕の考えを述べさせて下さい。
T-364-1.jpg僕の手持ちの本で調べられる限りでは、1975年刊行の「魚類図鑑 南日本の沿岸魚」(益田一・荒賀忠一・吉野哲夫)がネジリンボウと言う標準和名を提唱した最初の例だと思います。
黎明期にあったスキューバ・ダイビングによって観察・採取を行なってまとめた本書は、当時としては画期的な図鑑だったのだそうです。
151にも上る未記載種を一挙に掲載したのですからそりゃあ当時の人々は驚いたでしょうね。
さて、この図鑑発刊時点ではネジリンボウには学名もなく、新属・新種であろうと考えられていました。
「和歌山県田辺湾の水深5mの砂底で体長5cmの2匹が採取された」
とされ、標準和名には(新称)と書かれています。
このネジリンボウが当時どれほど珍しい魚であったのかは分りませんが、従来の魚類学者の人々には見た事もない魚だったのかも知れませんね。
余談になりますが、この図鑑で提唱された多数の新称に、人名や地名に基づくものは僕が調べた限りでは一種もありませんでした。

さてそこで、今回しげる君が指摘した「外観に基づく命名の危険性」の各ポイントを胸に、仮に僕が1975年にタイムスリップしたとしてこの「ネジリンボウ」の名を見直してみます。

  • 人による感じ方の違い

    この魚を「ねじれ」とは感じない人が居るかも知れません。
    事実、ネジリンボウの黒いラインは千歳飴の様にねじれている訳ではなく、単に体側に斜めの線が走っているに過ぎないのですから。
    それでも、「ネジリンボウ」と言う分り易い名前を付けてくれてよかった。採取地にちなんで「タナベハゼ」なんかにならなくて本当によかったです。

  • 場所による見え方の違い

    採取地の和歌山から分布域を南下するに従って、この体側の斜めラインがいわゆる横縞に近い傾きになって行く傾向があるかも知れません。
    そうなったら、南の海域では「ネジリンボウ」と言うより「ヨコシマンボウ」と言うべき状況になっているかも知れません。
    そんな可能性が仮にあったとしても、「ネジリンボウ」と言う覚え易い名前を付けてくれて本当によかったです。

  • 魚の状態による違い

    この魚は幼魚段階では黒いラインなんか全く出ておらず、真っ白な体をしているかも知れません。
    そうなると、成魚になるまでは、

     

     「これのどこがネジリンボウなの?」

    と言う疑問が付いて回るでしょう。
    その様な危険性は否定できないけれど、「ネジリンボウ」と言う愉快な名前付けてくれて本当によかった。

この様に書き連ねれば、僕としげる君の考え方の相違点が一層明らかになるのではないでしょうか。
つまり、標準和名に何を求めるのか、標準和名の何を大切にするのかの基準が僕としげる君で異なっているのでしょう。
そこで、標準和名を「外観や生態に基づいて命名する場合」と「地名や人名に基づいて命名する場合」のそれぞれについての利点・欠点を僕の脳内メーカーで計測してみました。
それが下の図です。
T-364-2.gif
つまり、外観で命名する事は将来的に誤解を生み出す危険性を秘めているのかも知れませんが、それに勝る利点の方が遙かに大きいのです。
一方、人名・地名に基づく命名は誤解の原因となる可能性は少ないかも知れませんが、利点も同様に少ないと僕は考えているのです。
でも、しげる君の脳内メーカーではこのプラス・マイナスが僕のものとは全く異なっているに違いありません。
それを「価値観の相違」などと言ってしまっては議論もそれまでなので、もう少しその背景を探ってみます。
では、上に挙げた「利点」とは一体何なのでしょう。その最初は、「名前の分り易さと覚え易さ」でしょう。
しげる君からは「和名に引っ張られる」と言う言葉が度々出て来ますが、実際には「外観に引っ張られている」のであるとは言えないでしょうか。
「人を見た目で判断してはいけません」
とは、親や先生がよく子供に言って聞かせる事です。
でも、そんな事が時代を超えて言い伝えられて来たと言う事は、親や先生だって如何に見た目に振り回され易いかと言う事を物語っているのだと思います。
僕だって、もっとスラリと背が高くて苦みばしった顔つきをしていたら若い頃から女の子にもてもてで、今とは全く違う人生を・・・・・。くそぉ~っ、どうして涙声になってしまうんだ~ぁ。
いや、取り乱してしまって失礼しました。
ではここで改めて、「人は如何に外観に引っ張られ易いか」、逆にその外観を利用すれば如何に名前を覚え易いかを考えてみます。
僕は人の顔と名前を覚えるのが大変苦手です。
以前お会いした事のある人に、
「どうも初めまして」
と挨拶したり、
「あ~、この人、何て言う名前だったかなぁ~」
と愛想笑いなんて事はしょっちゅうあります。
ですから、仕事上で名刺交換した時などには、後でこっそり、
「白髪の木下さん」
「黒めがねの加藤さん」
などと名刺の隅にその人の特徴をこっそり書き込んでいます。
つまり、「白髪」や「めがね」などと言った外観の第一印象をその人の名前と結び付けようとするのです。
「白髪」なのは木下さんだけではないのですが、ぱっと見た時の第一印象が「白髪」ならば「白髪の木下さん」です。
加藤さんも次回会う時にはコンタクトレンズにしているかもしれませんが、まずは「黒めがねの加藤さん」なのです。
この時、
「皮肉屋の山下さん」
とか
「内気な堂本さん」
と言った内面の特徴ではなく外観の第一印象を掴む方が記憶に強く残る様に思います。
そんな中でも、顔と名前の結びつきが一番印象強く残るのは、
「太っているのに細井さん」
「小柄なのに大木さん」
と、名前と外観が直接結び付く時です。
特に上の様に名前と外観が正反対と言う場合には小さなストーリーがそこに生まれた様に感じ、より強く印象に残ります。
つまり、外観から名前へと言うのは人にとって自然な意識の流れであり、そこに何らかのストーリー性があれば人の記憶により一層強く残るのだと僕は考えるのです。
これこそ正しく、先に挙げた標準和名の2大要件、

  • 外観や生態・生息環境に基づく命名
  • 日本語の豊かさを感じる(身近な言葉にもストーリーを感じさせる)命名

に呼応するのだと思います。
でも、上の例は人の生活上の出来事に過ぎません。
そこで、今回の議論のテーマである魚の外観と名前について僕の経験を紹介させて下さい。
さて、名前の無い魚になぜ名前をを付けたいのでしょう。
研究者の方にとっては、分類するにしろ行動を調べるにしろ、それが最初の第1歩だからと言う事があるでしょう。
でもそれならば、厳密な規則で定義された学名を用いれば良い訳であり、それとは別に標準和名と言うシステムが広く親しまれているのには別の理由がある筈です。
僕の場合には、それは、
「魚との距離を少しでも縮めたい」
と言う気持ちです。
図鑑「日本のハゼ」は日本産のハゼを徹底的に網羅した素晴らしい完成度の図鑑である事はご存知の通りです。
この図鑑には未記載種のハゼも多数載っていますが、それらには標準和名はまだ無いので、
ベニハゼ属の1種~15
などと言う表現になっています。
これは致し方ないでしょう。
でも、ダイバーの間ではこれがいつしか「名前」の様な機能を持ち、
「ベニハゼ15のこの斑紋は・・」
などと言う会話が交わされて来ました。
しかし、何だか無機的でよそよそしい名前ですよね。
これに対し、研究者の方が分類的位置を定めて、
「ダイトクベニハゼ」
と言う標準和名を提唱して下さった途端、何だかほっとした様に感じ、その魚が急に近しい存在に感じるから不思議です。
その魚自身は何も変わっていないにもかかわらず名前一つがこんな働きをするのです。
更に、もし海の中でこのダイトクベニハゼを継続観察でき、複数の個体を識別して一匹ずつに固有の名前(愛称)を付ける事ができたならば、その魚との距離は更に縮まるでしょう。
僕自身が標準和名の命名に関わる事など一生ないでしょうが、愛称の命名ならば僕にも出来ます。
実は、富戸のダイビング・エリアに居るクマノミの成魚を2005年以降全て僕は個体識別して来ました。
そして、性転換、ペアの形成、産卵、消失などの記録を積み重ねて来たのです。
この各個体に対して、その外観の第一印象に基づいて僕は自分なりの愛称を付けていました。
log-070922-2.jpglog-070922-1.jpg例えば、富戸には珍しい真っ黒の個体に対しては「コクトー(黒糖)」、尾ビレの湾入が大きい個体に対しては「ヤジリ(鏃)」と言った具合です。
黒っぽいクマノミはコクトーだけではなく、尾ビレの形が目立つのはヤジリだけではないのですが、外観の第一印象と名前が一旦結びつくと個体を混同する事はありませんでした。
ところが、新たな成魚が次々と現れた2008年頃、命名が追いつかなくなってお手軽に、
2008-A (2008年に初登場した成魚の内、最初の個体)
2008-B (2008年に初登場した成魚の内、2番目の個体)
と名付ける様になりました。
すると、その途端に個体の認識度が落ちてしまったのです。
「あれっ? 2番目のラインが太いこいつは2008-A だったかな、2008-C だったかな」
などと海の中で迷ってしまうようになったのです。
だから、Exit 後にノートを見て、
「そうか、あのラインはやっぱり2008-C だったんだ」
と確認する始末です。
つまり、系統だった数字とアルファベットの名前を付けても、それを覚えるのに結局外観の特徴を手掛かりにしているのです。
先に紹介した、
「白髪の木下さん」
と言うのと同じです。
こんな事なら、邪魔くさがらずにこのクマノミに対して、
「ニバンブト (2番太)」
等と最初から名付けていればよかったのです。
一方で、
「上のクマノミ例は、数字の様な無機的な名前だから覚え難かったのだ。外観と関係なくても何らかの意味のある言葉で名付けていれば覚えられたのではないか」
と言う考えがあるかも知れません。
それについてはこんな経験があります。
富戸の普通種であるタカノハダイは尾ビレの白い斑紋によって個体識別が可能です。
その事に気付いた時、磯に生息するタカノハダイ12匹を個体識別して、各活動範囲と共に長期定点観察しようとした事がありました。
その時も、1匹1匹に僕の愛称を付けたのですが、今度は、僕の好きなジャズ・ミュージシャンの名前を片っ端から付けて行ったのです。
log-030222B-7.JPGlog-030222B-8.JPG
この度は数字の名前ではありません。
各個体の名前を聞くだけでそれぞれのプレーヤーの顔だけでなく演奏の音までが頭の中で響くのです。
こんなに立体的なキーポイントはないでしょう。
ところが、結局は先ほどのクマノミの場合と同じでした。
「あれっ? ここに白点が並んでいるのはトレーンだったかな? いやモンクだったかな?」
とやっぱり海の中で混乱してしまったのです。
それぞれの名前のミュージシャンには強い親近感があったのですが、その名が実際のタカノハダイと結びついていなかったのです。
よって、その魚を近しく感じることは出来ず、その時頼りになるキーポイントはやはり斑紋と言う外観なのでした。
演奏のソロパートを諳(そら)んじる事が出来る程に親しみを感じているプレーヤーの名を付けてもこうなのですから、馴染みのない人名や地名なら尚更です。
以上が、僕が考える「外観に引っ張られて命名する事の利点」です。
この名を、愉快で美しく、ストーリーが自然に湧いて来る様な日本語で綴る事ができれば、一層覚え易く親しみ易い標準和名となるでしょう。
T-364-2.jpg外観を分かり易く表しているけれども、少し素っ気無く無機的に感じる標準和名があるのも事実です。
例えば、標準和名にありがちな語幹を適当に繋げて、
ミナミヒレナガコクテンハゼ
なんて魚を勝手に作っても、実在しそうな気がしませんか。

ですから、できるだけその魚の個性が際立った名前を付けて欲しいのですが、これは少し贅沢なお願いでしょう。
実際に命名する機会が多い研究者の方々にとってはいつもいつもそんなに工夫を凝らしてもいられませんものね。
あれま。
今回もまたまた長い長い手紙になってしまいました。
でも、「外観に基づく豊かな日本語による命名」についての僕の思いは凡そ語り尽くせたと思います。
単に魚の名前の問題だけではなく、生き物を見る姿勢と言った事についても考え直す良い機会となりました。
どうも有難うございます。
では、続きは屋久島に今度伺った時にでも。
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次回はこのねよし(富戸の波)さんのコメントに対する僕(HARAZAKI.NET)のコメントになります。

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